歴史年表
1543年(天文12年) | スペインの探検船「サン・ファン・デ・レトラン号」(船長ベルナルド・デ・ラ・トーレ)によって硫黄列島が発見された。 |
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1779年(安永8年) | ジェームス・クック船長が率いるイギリスの艦隊が硫黄列島を目撃し、3島を「ノース・アイランド」「サルファー・アイランド」「サウス・アイランド」と命名。 |
1873年(明治6年) | 小笠原の領土所属をめぐって日英米間で論争が盛んになる。明治政府は小笠原を領有統治する方針を固める。 |
1875年(明治8年) | 外務省官吏田辺太一等の調査団が父島・母島に派遣され、小笠原の住民に対して日本の所属となることを宣言。 |
1876年(明治9年) | 3月、小笠原を内務省所管とする。 10月、諸外国に小笠原が日本の領土と通告し、日本領土と確定。 |
1887年(明治20年) | 11月10日、高崎五六東京府知事が灯台巡視船・明治丸で硫黄島を巡航する。 |
1889年(明治22年) | 6月、田中栄二郎が硫黄島へ硫黄採掘と漁業を目的に渡航し、最初の入植が行なわれる。 8月3日、南硫黄島で4年間生活していた遭難者が発見される。 |
1891年(明治24年) | 9月9日、勅令をもって硫黄列島が東京府小笠原島庁管轄となる。北硫黄島、硫黄島、南硫黄島と名称を定める。 |
1892年(明治25年) | 5月16日、硫黄鉱山試掘願が農商務大臣によって許可される。 |
1896年(明治29年) | 石野平之丞が北硫黄島に上陸。 |
1898年(明治31年) | 硫黄島からの輸出用・運送用に艀漁船・小廻船2艘と年2回の定期船便を利用。そのうちの1回を南硫黄島まで迂回させ、遭難者の有無の確認することになる。 |
1899年(明治32年) | 石野平之丞が母島から北硫黄島に移住、開拓を開始。 |
1902年(明治35年) | 北硫黄島に私設小学校が開校。 |
1903年(明治36年) | 硫黄採掘を一時停止。 |
1904年(明治37年) | 7月、北硫黄島の私設小学校が石野村尋常小学校として認可される。小笠原島庁が吏員による島内面積を実測(1904・1907・1910年) |
1906年(明治39年) | 東忠三郎が仮校舎を硫黄島西海岸近くに建て、私設小学校が開校。 |
1907年(明治40年) | 内地から定期航路が年6回、硫黄島と北硫黄島に寄港するようになる。 |
1910年(明治43年) | 警視庁は硫黄島に巡査在勤所を設置し、巡査1名を配置。 |
1911年(明治44年) | 在郷軍人分会と硫黄島青年団が結成される。 |
1912年(明治45年)(大正元年) | 8月12日、東京地学協会伊豆南方諸島学術調査団が硫黄島を調査。 12月9日、久保田拓殖合資会社が設立される。 |
1913年(大正2年) | 6月15日、大正尋常小学校が開校。児童数56名。 |
1914年(大正3年) | 世話掛が置かれ、初代世話掛に島庁第一課長の尾崎登代太が赴任。助役収入役に現地島民の青木千蔵が就任。 |
1915年(大正4年) | 大正尋常小学校に実業補習学校が併設される。 |
1918年(大正7年) | 北硫黄島青年会が結成される。 7月15日、大正尋常小学校に高等科併置が認可され、東京府小笠原島大正尋常高等小学校が設立される。 10月3日、処女会(女子青年団の前身)が結成される。 |
1919年(大正8年) | 久保田宗三郎が開拓と島民安定の功績により東京府より表彰される。久保田拓殖合資会社が地熱利用による製塩業を本格的に開始。 |
1920年(大正9年) | 久保田拓殖合資会社が硫黄島拓殖製糖株式会社に改組し、製糖事業を本格化する。 |
1922年(大正11年) | >8月15日、大正尋常高等小学校に御真影が掲げられる。 |
1925年(大正14年) | 大正尋常高等小学校校舎増改築及び屋根葺き替え工事が行なわれる。 |
1926年(大正15年昭和元年) | 6月、大正尋常高等小学校が徴兵署として使用され始める。 6月30日、大正実業補習学校学則の名称を大正農業補習学校に変更。 |
1928年(昭和3年) | 御大典奉祝記念行事が行われる。コカの乾燥場が完成。 |
1929年(昭和4年) | 大正尋常高等小学校の分教場を新築する。 |
1930年(昭和5年) | コカ栽培事業が順調で、大倉庫・事業部事業所を建設。 |
1931年(昭和6年) | 蓄電池による学校ラジオ受信機を設備。ラジオ塔が設置される。 |
1932年(昭和7年) | 小作人組合が結成され、小作争議が起こる。 |
1933年(昭和8年) | 学校にミシンを購入し洋服を製作。 海軍機飛行場(南北800m、東西200m)が千鳥ヶ原に仮設される。 レモングラスオイル生産が開始され、元山噴気口附近に工場を建設。 再度小作争議が起こり、硫黄島拓殖製糖会社に対して小作人が待遇改善を要求。 |
1934年(昭和9年) | レモングラスオイル生産活動が活発化し、輸送用トラック3台が稼働。 |
1935年(昭和10年) | 農業補習学校と青年訓練所が合併し、青年学校となる。 |
1936年(昭和11年) | 青年学校兵器倉庫兼家庭科実習室を建設。硫黄島拓殖製糖株式会社の名称が硫黄島産業株式会社に改められる。 |
1937年(昭和12年) | 海軍飛行場が東西800m、南北200m拡張され、1,000m滑走路2本となる。模写写真撮影等が禁止される。 |
1939年(昭和14年) | 中央気象台硫黄島観測所が設置される。愛国婦人会分区が創設され、会員165名により出征軍人家族援護の事業活動が行なわれる。 |
1940年(昭和15年) | 3月、硫黄島観測所無線局が硫黄島公衆無線電報取扱所となり、電報が使用可能になる。 4月1日、硫黄島に町村制が適用され硫黄島村となる。北硫黄島は東京府小笠原支庁直轄が継続。硫黄島郵便局が開局する。第一飛行場の建設が開始され、労務者約2,000名が就労。 |
1941年(昭和16年) | 小学校制度が廃止され、学校名称を硫黄島村大正国民学校と改める。 |
1942年(昭和17年) | 和智恒蔵海軍中佐が1,000名以上の警備隊を引率し上陸する。軍部は島内民家に分宿を始める。 |
1943年(昭和18年) | 小笠原で零戦機献納献金運動が起こり、硫黄島島民も献金運動に合同。 7月1日、東京都小笠原島硫黄島村大正国民学校と校名変更。 9月、父島方面特別根拠地隊の一部230名、横須賀鎮守府派遣隊員800名が上陸する。飛行場滑走路1,200m×200mが完成。海軍一式陸攻(双発爆撃機)の離着陸が可能になる。 |
1944年(昭和19年) | 2月、海軍機が監獄岩に不時着する。 3月、海軍硫黄島警備隊を新設(和智恒蔵海軍中佐司令以下39名)。父島の小笠原地区兵団から陸軍部隊が硫黄島に進出し、伊支隊として発足(厚地兼彦大佐以下4,883名)する。 4月、学校校庭が軍用物資の集積所になる。 5月、米軍機が来襲し、硫黄島神社附近に爆撃。 6月8日、小笠原諸島所在部隊を改編し第109師団を編成。栗林忠道中将が着任。 6月15日、初めて艦載機の空爆を受ける。 6月16日、約100機の爆撃機が来襲し、全島被害。軍部から学校閉鎖の要請及び学童の疎開が勧される。 7月1日、軍部から疎開命令。 7月3日~14日、硫黄島から村民第1陣から第3陣が疎開。(硫黄島216世帯、1,164人、うち103人は軍属として残留。北硫黄島17世帯、90人。) |
1945年(昭和20年) | 2月19日、米軍が上陸し、国内最初の陸上戦闘が始まる。 3月21日、日本の大本営が硫黄島守備隊の玉砕を発表。(日本軍21,900名、米軍6,821名が戦死。) |
1946年(昭和21年) | 1月29日、行政権分離に関する覚書により、父島・母島などとともに連合軍施政権下に入る。 |
1951年(昭和26年) | 対日平和条約(サンフランシスコ講和条約)が調印される。 |
1952年(昭和27年) | 対日平和条約が発効し、米国の施政権下に入る。第1回目の遺骨収容事業が実施される。 |
1965年(昭和40年) | 東京都による硫黄島墓参事業が開始される。 |
1968年(昭和43年) | 6月26日、硫黄列島を含む小笠原諸島の施政権が日本に返還され、小笠原村が設置される。東京都小笠原村支庁の所管となる。海上自衛隊硫黄島航空基地分遣隊が発足し、飛行場の運用が開始する。 |
1969年(昭和44年) | 1月、硫黄島帰島促進協議会が結成される。 |
1970年(昭和45年) | 7月、小笠原諸島復興計画が決定し、「帰島及び復興計画の対象は、当面父島及び母島とし、硫黄島については、不発弾の処理及び遺骨収集の状況との関連において復興の方途を検討する。」こととし、復興事業の対象から除外される。(以降継続)。 |
1971年(昭和46年) | 日本軍戦没将兵の慰霊のため、厚生労働省が「硫黄島戦没者の碑」を建立。 |
1972年(昭和47年) | 南硫黄島が国の天然記念物(天然保護区域)に指定される。 |
1975年(昭和50年) | 南硫黄島全域が日本初の原生自然環境保全地域に指定される。 |
1982年(昭和57年) | 環境庁が南硫黄島を調査。 |
1983年(昭和58年) | 日米すべての戦没者の慰霊のため、東京都が「鎮魂の丘」を建立。 |
1984年(昭和59年) | 5月31日、小笠原諸島振興審議会は「硫黄島は火山活動による異常現象が激しい上、産業の成立条件も厳しく、一般住民の定住は困難」との答申を出す。 6月、小笠原諸島振興計画(改定10箇年計画)が決定し、「硫黄島及び北硫黄島については、一般住民の定住は困難であると考えざるを得ないことに鑑み、旧島民に報いるための措置及び集団移転事業に類する措置を講ずるものとする。」と計画される。 12月、小笠原諸島振興審議会が「旧島民に報いるための措置の具体化として、総額5億6,200万円の見舞金を支給すること。」と政府に意見具申。 |
1985年(昭和60年) | 2月19日、日米双方の元軍人・退役軍人ら400名による合同慰霊祭が行われる。 |
1986年(昭和61年) | 3月、見舞金の支給事務が終了。 |
1990年(平成2年) | 11月9日、戦前の島民墓地跡に建設を進めてきた硫黄島旧島民平和祈念墓地公園の竣工式典が行われる。 |
1991年(平成3年) | 3月、硫黄島開拓之碑(小笠原村)及び硫黄島旧島民戦没者の碑(旧島民有志)を建立。 7月、北硫黄島で石野遺跡が発見される。 |
1994年(平成6年) | 2月12日、天皇、皇后両陛下が硫黄島を行幸啓される。米沿岸警備隊のロランC基地が撤去される。 |
1995年(平成7年) | 小笠原村平和都市を宣言する。 |
1996年(平成8年) | 6月21日、行幸啓記念碑除幕式を挙行。 |
1997年(平成9年) | 6月、小笠原村が「おがさわら丸」を傭船した硫黄島訪島事業(墓参)を開始。 |
2002年(平成14年) | 6月21日、墓参や遺骨収集などで訪島した人の宿泊施設として硫黄島平和祈念会館が開所。 |
2005年(平成17年) | 6月19日、小泉純一郎内閣総理大臣が現職首相として初めて硫黄島を訪問、日本国政府主催の戦没者追悼式に出席。 |
2006年(平成18年) | 硫黄島の戦いを日米双方の視点から描いたクリント・イーストウッド監督の映画、「父親たちの星条旗」と「硫黄島からの手紙」が公開される。 |
2007年(平成19年) | 6月17~27日、東京都と首都大学東京が合同で南硫黄島の自然環境調査を実施。 6月18日、地名等の統一に関する連絡協議会において、硫黄島の読みが「いおうじま」から「いおうとう」に変更され、あわせて北硫黄島は「きたいおうとう」、南硫黄島は「みなみいおうとう」に変更される。 |
2010年(平成22年) | 8月10日、菅直人内閣総理大臣の下に、硫黄島の遺骨帰還に関する特命チームが発足。 12月14日、菅直人内閣総理大臣が戦没者遺骨収集事業の視察と慰霊で訪島。 |
2011年(平成23年) | 6月29日、北硫黄島、南硫黄島が聟島列島、父島列島、母島列島、西之島とともに世界自然遺産に登録される。 |
2012年(平成24年) | 国の調査により米国国立公文書館で摺鉢山山麓及び滑走路西側の2ヶ所で集団埋葬地の存在が確認される。 |
2013年(平成25年) | 4月14日、安倍晋三内閣総理大臣が日本国政府主催の戦没者追悼式に出席のため訪島。 |
2014年(平成26年) | 国土地理院による調査で、硫黄島の面積が父島を抜いて小笠原諸島最大になっていることが判明。(父島23.45 km²、硫黄島23.73 km²) |
2015年(平成27年) | 2月10日、海上自衛隊硫黄島航空基地において、ソフトバンク(株)による携帯電話サービスが開始される。 |
2016年(平成28年) | 10月8日、小池百合子東京都知事が「東京2020オリンピック・パラリンピックフラッグツアー」の帰路、鎮魂の丘で慰霊。 |
2017年(平成29年) | 6月13~28日、南硫黄島において、東京都が首都大学東京及び日本放送協会との共同研究で、2007年以来10年ぶりに自然環境調査を行う。 |
2022年(令和4年) | 4年ぶりに洋上慰霊祭による硫黄島訪島事業を実施。 |
2023年(令和5年) | 硫黄島訪島事業の移動手段を、おがさわら丸の傭船から自衛隊航空機の支援に変更。 6月2日、国土地理院が硫黄島の地図を更新し、島の面積が約6㎢(東京ドーム約130個分)増加。 10月下旬、硫黄島沖の噴火活動で新島が出現。(最大時の大きさは、南北450m・東西200mほど) 翌年3月下旬、新島は海没。 |