「摺鉢山山頂から望む南海岸」
戦前、硫黄島は南国の恩恵を存分に享受しながら、約1100人の島民が農業・漁業を営み、豊かに、そして穏やかに暮らしていました。
そんな平和な地は、太平洋戦争の激化により、本土防衛の最前線となりました。
戦況が悪化した昭和19年の夏、軍属として徴用された男性103名を残して、島民は本土へ強制疎開させられました。
翌年の2月には米軍が上陸し、激しい戦闘の末、日米両軍合わせて2万8千人もの尊い命が失われました。
軍属として島に残った島民も、82名がその若い命を失いました。
明治期の入植以来、幾多の困難を乗り越えて築いてきた「故郷」は廃墟と化し、返還から半世紀が過ぎた今もなお、旧島民の帰島が叶わない状況が続いています。
小笠原村は、故郷であるこの硫黄島に暮らせない旧島民の方々も同じく小笠原村民であるとの認識のもと、その心情に応えるため、旧島民の方々の墓参と里帰りを継続するとともに、村民の硫黄島理解のための訪島事業を実施します。
硫黄島訪島事業
小笠原村では、故郷に帰島できない旧島民の墓参や里帰りと、中学生をはじめとした一般村民に硫黄島への理解を深めてもらうことを目的に、旧島民と小笠原在住者を対象とした訪島事業を実施しています。
また、東京都では、旧島民を対象とした自衛隊航空機を利用した墓参事業を年2回実施しています。
平成9年度から年1回、村でおがさわら丸をチャーターし、宿泊での訪島事業を実施してきました。しかし、令和4年度、硫黄島および周辺海域の隆起問題等を踏まえた検討の末、おがさわら丸での訪島を断念することを決定しました。
令和6年度は、関係機関と調整の上、自衛隊航空機を利用して日帰りでの訪島事業2回実施しています。来年度以降も訪島事業の一層の充実を図ってまいります。
遺骨収集帰還
第2次世界大戦の激戦地・硫黄島では、遺骨収集という重要な課題が残されています。 硫黄島における日本軍の戦死者の数は、厚生労働省社会・援護局の調査によれば、21,900人です。その多くは、米軍による火炎放射、注水、射撃、手榴弾攻撃により地下壕の最奥部に追い込まれて戦死したと推測されています。
昭和27年から令和5年度末までに発見・収集された遺骨の数は10,652柱で、全体の半数に過ぎず、未だ半数近くの遺骨が眠ったままになっています。
地下壕は全長18kmもあり、壕口も数千箇所あったといわれており、米軍により閉鎖された地下壕も多く、内部の遺骨の状況は不明な点が多いのが現状です。
現在、硫黄島戦没者遺骨収集は、厚生労働省社会・援護局により年4回実施されています。
取組状況の報告や計画はこちらのページから
厚生労働省:
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/hokabunya/senbotsusha/index.html
遺骨収集事業と小笠原村の関わり
昭和27年度~ | 厚生労働省による遺骨収集事業が開始される。(硫黄島旧島民の一部の方も協力) |
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平成12年度 | 「小笠原村」および「小笠原村在住硫黄島旧島民の会」厚生労働省の派遣団員に加わる。 |
平成15年度 | 「小笠原村」が遺骨収集業務の一部(重機の運用等)を受託する。 |
平成28年度 | 「戦没者の遺骨収集の推進に関する法律」(平成28年法律第12号)」が成立。 →国の責務とし、遺骨収集の計画的・効果的な実施等が規定。 厚生労働大臣が、遺骨収集事業を行う法人として一般社団法人「日本戦没者遺骨収集推進協会」を指定。 |
平成28年度~ | →「小笠原村在住硫黄島旧島民の会」は、一般社団法人「日本戦没者遺骨収集推進協会」の構成員として遺骨収集を行っている。 |
ハンドブック「硫黄島クロニクル~島民の運命~」
硫黄島の元島民らでつくる「全国硫黄島島民の会」発行の
かつての島の暮らしぶりをまとめた冊子「硫黄島クロニクル~島民の運命~」をご覧いただけます。
戦前の島の暮らしや歴史を多くの人に知って欲しいと作成されました。
明治時代の開拓期から現在までの島の歴史を、写真やイラストを交えて解説しています。
元島民9人のインタビューも掲載。
「全国硫黄島島民の会」会報 ~最新の《硫黄島》をお届けします~
元島民の孫らで作る「全国硫黄島島民3世の会」では、硫黄島で祖父母や先人たちが営んできた島での暮らしや、島で起きたことについて、次世代につなぐ活動をされています。
↓最新の硫黄島のことが記載された「会報誌」をご覧いただけます。
※著作権は全国硫黄島島民の会に帰属します。営利目的での複製物の譲渡・配信・販売を禁止いたします。
硫黄島開拓碑文
硫黄島島民平和祈念墓地公園内に建立した「硫黄島開拓碑」の碑文を紹介します。
硫黄島(いおうとう)は、父島の南約280km、北緯24度47分、東経141度19分に位置し、北硫黄島、南硫黄島とともに火山列島を構成する。 16世紀中頃にはスペイン船により望見されており、ヴルカーノ(火山島)と呼ばれた。また、18世紀後半イギリスの探検隊に見出され、サルファー・アイラント(硫黄島)と名づけられた。
明治24年(1891年)9月勅令により日本領土に編入、東京府小笠原島庁の所轄となり、北硫黄島(洋名サン・アレッサドロ島)硫黄島(洋名サルファー島)南硫黄島(洋名サン・アグスティン)と命名された。
これに先立つ明治22年(1889年)6月、父島の住民田中栄次郎が、父島で建造した帆船南洋丸にて十余名とともに、鮫漁と硫黄採取を目的として渡航したことから硫黄島の開拓が始まった。 明治25年(1892年)から本格的に硫黄採掘事業が開始された。その後、主産業は平坦な土地と地熱を活かした農業に重点が移った。砂糖キビ、コカ、レモン草と情勢の変化に伴い主要な作目は変わっていったが、農業の隆盛とともに人口も増加していった。
昭和15年(1940年)4月硫黄島に村制が施行されたが、北硫黄島はなお小笠原支庁直轄であった。 この年の住民は、硫黄島1,051人、北硫黄島103人。 昭和16年(1941年)12月8日太平洋戦争勃発 大戦の激化とともに、豊かで平和な地は本土防衛の最前線となり、昭和19年(1944年)住民は強制疎開を余儀なくされ、父祖の地は玉砕の島となった。
硫黄島の日本領土編入百年にあたり、島の開拓に勤しんだ先人の功績を讃えるとともに、いまだにかなわぬ帰島の夢を託し、この碑を建立する。
平成三年三月 小笠原村
概要
位置・気候、地形・地質、動・植物等について
写真
島内のいまの様子、慰霊碑や戦跡など